| 蜩 増 原 一 眞 プロフィール 四日市諏訪西商店街振興組合・理事長 民芸食事処「まっさん」店主 |
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| 敗戦直後。夏。私は広島県備後田幸村に居た。今、地図を見ても、田幸村という字は見当たらない。当時、私は三次(みよし)中学校の三年生で、伯父の家から通学していた。伯父の家は、「祈月荘農園」という別荘で、農園の中に在った。伯父は裸一貫で身を立て、大阪西成区で印刷会社を経営して、太平洋戦時は、軍需の印刷を受けて、功遂げていた。鍾馗(しょうき)さまの絵のついた、征露丸という薬の箱を製造していたのが、私の印象に強い。戦後の復興の前提として、食糧難を見越しての農園経営であった。祈月荘の名の由来は、私たち一族の祖先が山中鹿之介であり、戦に向かう時に、三日月に祈ったという伝説によるものであった。 前年の日本の敗戦。中国北京から引揚げた私たち一家八人が路頭に迷った揚句、父の就職先がここに決まった。伯父が、長男の私だけは学校をだしてやると言ったので三次中学に通うことになった。つまり私は"居候"であった。 |
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| 日本中が食べんがために苦労していた時代だったから、父は昔日の自負も、理想もかなぐり捨てての、大樹の蔭であった。が、重い物といったら、ペンと電話しか持ったことのない父にとって、農業は決して望む処ではなかった。早朝から夜半まで働いている父の背中は細かった。私は、自分だけが、家族の誰よりも、ぬくぬくと通学していることに、身が縮む思いもしていた。この別荘には、数人の使用人と、農事に地元の農家が雇用されていて、その他に、二人の若者が居候風情で働いていた。 外地から引揚げて来た親族に、救済の旗を立て、伯父は若者を引き取って面倒を見ていたのであった。一人は甥の宏、台北帝大。もう一人は甥の昌平、東海大で、後一年で卒業という時点での終戦だった。私をふくめ"居候"は三人だった。事業家の伯父は、将来、印刷会社か、祈月荘農園に忠実の士を養育する所存であったらしい。 伯母は此処の主で、三人目の後妻。四歳の女児があった。伯父の全幅の信頼を集めた伯母は、早朝から農夫の指揮をとり、晴れた日も長靴を履いていた。私はその姿を美しいと思い、居候たちは敬意をもって、親しんでいた。父だけは、この女主人公に動かされることに、プライドが許さないのか、一匹狼のように、心までは許していないのが私にもよくわかった。引揚げ直後、国鉄から就職の要請があったのを、格下げが気に入らず、病身を理由に断ったのも、父の自尊心であった。 |
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| 昭和二十年八月を境目に、どん底に突き落とされたとはいえ、父の晴れやかな歴史は、昭和九年満州に始まる。幻の特急と世界を驚かせた「あじあ」の製作で、車電(電気系統)を受け持ち、その後、軍の華北進駐と共に北京に渡り、華北交通株式会社の要職につき、マレーの虎と呼ばれた山下奉文や台湾に逃げた蒋介石との会見を経験する。その模様を話し聞かせてくれた誇らかな意識は、容易に拭い去ることはできなかったのであろう。王道楽土の建設や五族協和も精神は、大東亜戦争を聖戦と信じた父の生甲斐であった。だのに……一日にして百八十度の転換を強いられて、己の往く道を失ってしまった。家族八人の食料を得るために、過去の一切を振り切る覚悟を固めていた父であった筈が、或る時、何処かで、昨日の顔がのぞくのであった。 私も旧制から新制高等学校編入という時期で、このままでは、伯父の会社の一社員として行く先が決まってしまうと思うと、自分が自分でなくなる気がしてた。祈月荘の檻につながれた鹿のように哀れな感がして、素直になれなかった。私は心ひそかに早稲田へ入り、岩波文庫の様な出版社の編集長になりたい夢があったが、今さら口にも出せない。信頼する父にさえ、言ってはならなかった。 |
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| そうこうしているうちに月日が経ち、或る朝、学校へ出掛けようとしていた私に、父が会いに来た。…(何かあった?)と、私は直感した。座り直して、父は「お前はどう思う?」と切り出した。低い声で他をはばかるように、窓のあたりをチラッと見た。親子で世話になっている手前があってか、日頃、私に声すらかけなかった父であった。 「何のこと?…」が声にならないうちに、 「実は、伯父さんと口論になってな。…昨日のことだ…」 「そして…」 「…たしかに伯父さんは引揚者の親族救済を考え、引き取り、若者には将来を約束してくれてはいる。しかし人生は明日のことすらわからないもんだ。自分の半生を見ても、わずか四十年の歳月ですら、激動の人生だった。私は宏君と昌平君のことでおじさんに進言したんだ。あの二人を見ていて、常々考えさせられてきた。後一年、大学へ通わせてやってから、祈月荘でも大阪でも働かせばいい。サラリーマンにとって、子供を大学にやり、出世を夢見るのは、当然のこと。何かと力になってやって欲しいと言った訳だ」 |
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| 父は若くして上京。幻灯器制作販売の商店の丁稚となり、昼は手押車で配達。夜学に通ったと言う。入試を受けて鉄道省に入り、"いざ大陸へ"の時流に乗って、満州に渡ったのだが、大学を出ていなかった事で、絶えずサラリーマンの悲哀を痛感していた。努力型の父は、体験を重んじる一方で、学歴の差別に憤りを感じていただけに、若い二人を一年だけ復学させてやってくれと、伯父に頼んだのであった。私は父らしいと思った。「それで伯父さんは何と言われたの?」 父はやや感情を高ぶらせた口調で、 「『わしは社会福祉をしてるンじゃない。甘ったれたことを言うな。戦争に負けて、命カラガラ生きてる時代に、学歴がどうの、夢がどうのと言ってる場合か。わしは無学で今日まで事業を成し遂げてきた。……今大切なことは、身分相応な生き方が出来るだけでも有難いと思うことだ』と言ったので、長い人生のうちの一年ではないかと、頼んでみたが折合いはつかなかった」 更に互の思想に係わる議論で深刻な状況を招いたらしい。もうとっくの昔に、始業時間は過ぎていたが、父は学校を気にもしていない。 |
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| 「私は此処を辞めようと思う。折角の職場を得て、家族を食べさせて貰えるのは有難いが、伯父さんの物の考え方には従いていけない。私が生き方を変えない限り、いつかぶっつかる。辞めると言って来たんだ」 父と私が祈月荘で暮し、家族六人は三次市から数里の布野村という処に居た。三次からの道をそのまま北へ進むと、中国山脈にぶっつかり、赤名峠を越えれば出雲であった。父の辞職に、母や弟妹の顔が浮かんだ。布野の住居は、一階が土間で四十坪位の広さがあり、トラックが二、三台は入れた。二階が板の間でゴザを敷いて寝起きしていた。ここも祈月荘の倉庫で空屋だったのを伯父が無料で貸してくれたものだ。伯父の親戚筋の旅館が、上布野という部落にあり、皆が伯父を崇拝していたから、私たち一家はさぞ冷ややかな目を向けられるに違いない。 「布野の家はどうなるの?」 と私は聞いた。 |
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| 「どうせ空家だし、直ぐに返せという訳にもゆくまい。いずれ建て替えるまで住むがいいと言ってた」 私はやれやれと思った。"人生至る処に青山あり"といえど、北京に然り、吉田に然り、この布野の家を追い出されたら、どこに青山が在るというのか。思想の違いとは言え、それにしても他人様のことで決別に持ち込む父の、求道者的正義感と、あくまで世の処生の利の追求を頑固に通す伯父の、いずれを正とするかと問われても、少年の私には難問である。(もう一度考えてみたら…)の余地は既になく、続き話は私に及ぶ。 「伯父さんは一眞をここに置いてやってもいい。学校を続けてもいいと言われたんだ」 と父は言った。お前はどうすると尋問されたに等しい。父が私を一人前に扱って、立ててくれていると思えば、自尊心をくすぐられる気もするが、この厳しい現実の中で、長男の私に対して自分を押し付けられない父のわびしさを垣間みて淋しかった。大陸の地でまぎれなき自己の確立を通した父はない。(お父さんの思うようにしたらいいじゃないか)と言いかけて、私は口をつぐんだ。父は明日から誰に仕事を頼み、何が出来るというのか。私だけが家族の生活からはみ出して、居候を続ける訳にはゆかぬ。父の敵の情けは受けたくない。こうなったら、私が父の代わりに金儲けを考えよう。"青山"を造りだすために父と共に此処を出よう。… |
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| 「お父さん。僕もいっしょに布野へ帰る。伯父さんの言われるように、学校ばかりが人生ではないのかも知れない」 父の目が輝いたようにも見えた。詫びているかのように頬がかすかに震えていた。陽も西に傾いたころ、行李一つ持って父と二人伯父に礼を告げて祈月荘を出た。伯父は口を開かなかったが、門まで送り出た伯母は「これでいいのかい?」と私に声をかけた。父にも言ってくれたらいいのに……と私は悲しかった。駅までの地道は熱気を吐いて汗が足までにじんだ。それぞれが黙って歩いていた。キ、キ、キキ、と、黄昏を告げるが如く蜩が鳴いた。 |
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| 備後十日市駅からバスに乗って、暮れて家へ着いた。夫の辞職と長男の退学の報らせが土産だったから、母は仰天した。でも、母はすぐに理由を聞こうとはしなかった。今までもそうであったように、聞いても始まらない母の座であった。久し振りに家族が全員揃った。貧しき中にも夕食は宴であった。幼い弟妹たちは無心に食べて寝た。境目のない部屋の片隅で、父が事の起こり一部始終を母に告げた。「メイファーズね」と、中国語で、母は納得した。 |
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| 省みれば、去年はまだ北京に居た。日本の敗戦で丸腰になった日本軍の残兵と、華北交通株式会社の社員の残留組が、明日の保障なき生活を送っていたのである。父はこの鉄道会社の要職に在り、中国に移管した鉄道運営は、政治的にも、技術面でも混乱を起こし、マヒ状態に陥っていた。時の北京政府は日本人エンジニアに限り、残留を命じたのである。その背後には、フィリピンのマニラから米軍が進駐し、マーシャルという将軍の軍令があったという。北支の鉄道が正常に戻るまで、祖国引揚げを余儀なく延期された私たちは、中国民衆の目を気遣いながらの毎日であった。日々に北京の街から日本人の姿は消えて、毎朝やってきたマントウ売りの一輪車も門口に立たなくなった。父の背広は作業服に変わり、夜の外出は自ら禁止となった。戦争に負けた実感は子供心にも、ひしひしと感じられた。日本の兵隊さんに守られているという安堵感は夢となり、日々の買物は母に代って私の役目となった。街を行けば、民衆による日本人宅襲撃、略奪の跡が放置されたまま、暁け方の胡同(路地)の隅に、うずくまったまま動かない日本人の姿も見られた。日本居留民の"平常住生"が如実に現れて、日本人の北京は消え失せた。或る日突然のようにインフレ化して、父は給料の人民元を、トランクに詰めて帰ってきた。予測のつかない世情の、揺れ動く中国であった。 |
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| 私はある日、珍しい光景に出会った。米軍の北京進駐の第一陣は、先頭にゴリラの中隊をたて、軍楽隊の吹奏のもと一個師団が行軍してきた。勇ましい曲に呼応して、王府井(わんふーちん)大街にやってきた。ゴリラ兵は自動小銃を肩に、軍服の上衣だけ着ていた。歩調は合わせようもなく、歩くたびに銃は左右に揺れて、隣同士でカチカチ鳴っていた。アメリカ人らしいデモンストレーションの入城に、民衆は「快哉」「快哉」を叫んで歓迎したが、かつての日本軍の入城の時も「快哉」であったとその聞き覚えがあった私は、「一体何を考えているんだ」と思った。夜、帰宅した父にこの話をしたら、「こんな"毛唐"の集団に皇軍は屈したのか!」と、やりきれなさと、馬鹿さ加減とを嘆いていた。 |
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| いつまで留用になるのかわからぬままに、我が家は籠城態勢に入った。東單(とんたん)市場に米や砂糖が消え、「買い溜めもできやしない」と母は愚痴をこぼしていた。 やがて抗日騒動が下火になった頃、二人の中国人青年が夜な夜な尋ねて来るようになった。頃を見計らって、米や砂糖や塩を差入れに来てくれたのである。その二人は父の部下で、三十歳前後の大学出であった。名前は"広宝林(こーぼうりん)"と"張芳樹(ちょうほうじゅ)"といった。父が会社でどんな対人関係を持っていたかが子供にも想像がついた。日本民話の「笠地蔵」のように、その都度黙々と土間に麻袋を投げ入れて帰って行く。その後姿を涙して拝んだ。涙して拝んだ。 |
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| 戦後四十年経って、友人に誘われ、北京を尋ねたことがある。広さんと張さんを探がし当てることが出来たら、父の死を告げ、お礼を言いたいと思った。名前しかわからぬ尋ね人は無理であろう。でも、昔と違って、北京の街区ごとに共産党の支部が有って、そこへ申込めば、随分昔のことでも判ると友人は言った。意を決して支部の門を潜った。軍服姿の日本語が話せる役人が私の話を聞いてくれたが、答えはこうだった。… 「名前だけでは探し様もない。党員ならまだしも、当時の親日派は同志ではない。あきらめろ」 若しかしたら、二人は文化大革命のときに、モンゴルへ追放の身となったかも知れない。かつての私たちの住居も今や、公衆便所になっていた。あの「笠地蔵さん」にお礼の一言すら述べることも出来ず、もう会えないだろう。 受けた恩を返すということは、ご当人に出来なくても、生きている今を、生活している時間の中で、身内、他人、国籍を問わず、"他人(ひと)に何が出来るか!"を思い、手を差し延べることに他ならぬ。私のもう一つの故郷北京に、私の笠地蔵さんは生き続けている。 |
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| 「少なくとも三年位は日本に帰れない」と父が言い、「子供たちの学校はどうなるの?」と母が言う。ところが突如、全ての日本人を帰せとの命令が下った。日本人は全員、一週間後に「前門(チェンメン)」に集められ、その集団は「塘沽(たんくう)港」において十日間の船待ちとなった。引き揚げ命令が下る前に、父は急性肺炎に罹り、完治しないままであったから、相当つらかったらしいが、米軍のLST船に乗るまで顔にも出さず耐えていた。やっと一服の薬が支給され、「死なずに日本に帰れる」と笑って見せた。 船が佐世保に近づいた頃、美しい緑の祖国日本の山々が印象的だったが、海には日本の軍艦が舳先を出して沈んでいた。甲板に集まった人々の中から、一人の老父が杜甫の詩を吟じた。 国破れて山河あり。 城は春にして草木深し。 時に感じては 花にも涙をそそぎ 別れを惜しんで 鳥にも心を驚かす。 皆、泣いた。声を出して泣いた。 佐世保港の桟橋を渡るとき、キ、キキ、キキキー、と虫が鳴いていた。「お父さん、何が鳴いているの?」と聞いた。「蜩というセミだ」と父が教えてくれた。 |
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| 父母の里は毛利元就の居城の在った、広島県高田郡吉田町である。途中、広島駅で灰のままの街を見た。吉田の家で祖母が一人で住んでいた。佐世保で支給の一人千円は、いつまでも在る訳ではなく、国鉄に就職を断った父が、どう探し当てたか、赴任先が祈月荘農園であった。 朝早く目が覚めて、布団の上で座り直してから、今日から学校へいかなくてイインダと思った。白線三本入った制帽をかむってみた。今日からどうすると自問したが、壮快な気分になれなかった。上布野の宿屋へ行って仕事を探して貰おうと思った。親戚筋の縁で若主人に会う。 「三次(中学校)をやめて、下布野へ戻って来たんじゃが…、わしに出来る仕事はナニか無いもんかのう」 と聞いた。 「まあ上りんさい」 と言われてホッとしたが、心の中で騙されないようにしなくっちゃと思っていた。若主人は祈月荘を出てきた経緯を、根掘り葉掘り聞くが、父の件はうまく説明出来そうにないと思い、 「学校へ行ってる段じゃないけー、止めたんじゃ」 とだけ答えた。 |
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| 「仕事といっても、こんな田舎じゃ山仕事しか無いんじゃ。あんたには無理じゃ」 と若主人は言う。山仕事とは、中国山脈の、コルク樫の樹皮を、切り出し、化工する仕事で、体力もトラックも必要な専門職である。 「なんなら…祈月荘にある大学ノートを売ってみるか?米や麦と交換でもしたらどうじゃろう?」 と言われて、私はその気になった。物の無い時代で子供も使用するノートは売れるかもしれない。田舎を廻って、米や小豆と交換し、それを備後十日市駅の闇市へ持って行けば銭になる!。頭の中で夢が広がっていた。私の社会人の第一歩は、ノートの行商であった。夢は見るも簡単だが醒めるのも早い。色の黒い藁半紙を綴じたノートは、足が棒になるまで歩いても、売れなかった。半月ほど歩いているうちに、若主人は闇屋だという噂を聞いた。私はまともな商売よりも、危険を犯しても、儲けが早道だと思い、若主人に弟子入りを頼んだ。若主人は険しい顔付きで、 「誰に聞いたんなら、……子供には無理じゃ」 と相手にしない気色だ。 「一度だけでいいけん、わしを連れて行ってつかあさい」 と土下座して頼んだ。これを切掛けに何かをつかんだら、自分一人でも活路を見出せると心の中で叫んだ。やっと承知して貰った仕事は、出雲へ塩鯖を仕入れに行き、それを売ることであった。木賃宿に寝て浜の市で鯖を買う。帰りの備後十日市駅で、若主人は言った。 「これから先は、別々じゃ」 |
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| 若主人は私に販路は教えなかった。自分で売れとのことだ。闇市で魚を売っている店へ行ってみたが、買ってくれなかったので、布野まで帰る道中、歩いて売ろうと考えた。道すがら、家一軒一軒、声を掛けながら売る。田圃の百姓の人にも声を掛けた。「昨日配給があったけーいらん」と言われた。「あんまり活(いき)がええことないのー」と偉そうに言う老婆もいた。干した魚に活(いき)がエエーもワルイもあるもんかと腹が立つが、むきになって「今朝出雲で仕入れたんじゃ、悪いはずは無いけー」と、懸命に弁解した。歩きながら、干した魚でも活のいい悪いがあるんだ!。背中のビクの塩鯖一本、手にとってしげしげと私は見たが、違いはわからなかった。家へたどり着いた時、数本しか売れていなかった。荒縄を指先で撚りをもどして、その出来た穴に魚の尾を差し込んで、干し柿のように軒に吊す。いくら物が無い時代でも、売れる物と売れない物とがあって、自分の一人よがりは商売にならなかった。闇市を一店ずつ見て歩いた。売れる商品の最たる物は、統制品だった。仕入先が新米の私には、皆目見当がつかない。また、若主人の許に相談に行く。 「何をやらしても駄目な奴じゃのおー」 が第一声だった。 「親父は病気上りで仕事にならんし、母親は物々交換に歩いているが、食べていけんのじゃー」 と、私は泣き落しで拝むように頼んだ。父もノートの行商に歩いたが、「要らん」と言われると、「ああそうですか」と言うだけで、「芋でも胡瓜でもいいから交換して貰えまいか?」と頭を下げることが出来ずに引き下がる。大名商売だからモノにならなかった。 |
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| 翌日の夜半。珍しく若主人が我が家へやってきた。そしてこう言った。… 「タバコをやってみんか?ただし命がけじゃ。統制品じゃけー警察に見つかったら米よりひどいぞ、旨くやれば完璧売れて、儲かることは、間違いなしじゃ」 若主人の知人が、東城という処で煙草の栽培をしている。煙草は薹がたち上へ伸びながら、下の方から葉が育つ。品質管理上、悪い葉を間引き、それを捨てずに遺しておいて貰って、それを自家製巻き煙草にするのである。闇は生産者と共同事業だから、どこまでが悪い葉かは、見分けがつきにくい。生産者も同罪になるから、取引きの時間は深夜に決まっていた。持ち帰って、乾いた葉に霧を吹き、折りたたんで千切りにする。火持ちのいいインディアン紙(辞書に使用する紙質)で巻き煙草とし、十本単位に輪ゴムを掛け、軍隊の雑嚢に詰めて、闇市へ持って行く。売り先は一店に決め、「ヤァー」と一声で通じる。すぐに現金をくれる。どの商品より高価で、どこでも買ってくれるが、販路を拡げると目につき、危険である。 |
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| タバコの仕入れ、運こび屋は、大人より子供の方が無難だと、若主人は一通り説明して、「お前たち兄弟三人でやれ」と言うのであった。儲けは半々。警察に捕まったら自分持ち。白状したら生産者に大罪が課せられる。 父は、(とんでもないハナシだ)という様な顔をしている。私は儲かれば考えることなんか無い。金があれば父親を医者に診て貰える。夏休みの弟たちを連れて、何度この仕事が出来るか? ためらいは一切なく、私は引受けた。弟二人は話の内容は判らなくても、兄の命令には従順であった。家族にとって重大な話だとは理解しているように見えた。 備後十日市駅から四時間。汽車に揺られて東城駅に着く。書いて貰った地図を頼りに山道を三時間余り上りを歩く。不思議に思ったことは、途中一軒の家もなく、畑もない。人一人行き交うこともなかった。別世界に入り込んだ気がした。小さな、すり鉢の底の様な部落の、その農家に着いたのは日暮れだった。家は数軒。農家のおかみは、両手で私達を隠すように家の中へ迎え入れた。私たちの、三つのリュックサックに、その家の主人が早々に荷造りを始めた。先ず底に小豆を敷き、タバコの葉をその上に入れ、最後に米を入れた。駅で警官に咎められたとき、先ず、リュックの底をつまんでみる。次に上部をつまむ。大粒の小豆と小粒の米は、この際、おとりになる。真ん中のタバコの葉は、開けない限りわからないという寸法である。タバコが発覚すると、子供でも許してくれないのが闇屋の常識だった。「よし出来た」と主人が軽くリュックサックを叩いて笑ってみせた。 |
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| 山合いの入り日は早く、夕飯を頂く。焚きたての「銀めし」はぞくぞくする感動である。弟二人も、私も、むさぼる様に箸を動かす。 「遠慮せんで、…余計食べんさい」 とおかみの言葉に涙が出そうになったが、この美味さの中で、親爺やおふくろに悪いなァと思う。もし、おかみさんが明日の弁当に銀めしをくれたら、私の分は、土産にしようとも思う。 これから先のことは、見当もつかないが、もし、資力が出来たら、畑を買おう。土地さえあれば陸稲だって作れる。私は今、この藁屋根の家が羨ましく、おかみさんがまぶしい。法律違反の闇屋というが、食べることの出来ない人間にとっては、泥棒よりましだ。自分が米を得ない限り、誰が米を差入れてくれるというんだ。と、自分で理屈を組みたてる。 兄弟三人が枕を並べて、夜更けまで死んだように眠った。起こされて真先に便所。そして食事。一日の途中の排便は、その日の全ての計画を狂わせる。軍隊用語の「小便一丁、クソ八丁」が私の習慣になっていた。 下の弟は寝起きが悪く半分まだ眠っていた。昨日の疲れは判っているが、ぐずぐずしている場合ではない。手を引張って、便所へ行く、交代では遅くなるから、三人が縦列になって大便をした。それぞれが落す音を聞きながら一斉に終了。朝食は冷や飯だったが、やはり美味かった。午前二時に出発することになっていた。一番列車に乗るためには時間を正確に守らねばならない。始発は貨車と客車の混成列車で乗客も少ない。何よりも警察の立入検査も稀であった。 |
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| 「気ィつけてな」と念を押されて、リュックを背負った子供三人が、月のない村を発つ。「山道に入ったら火をつけなさい」と堤燈を持たせてくれる。声を殺して別れを告げる。 細い山道は三人縦隊で歩く。上り坂より、下りの方が歩きにくい。下の弟は真ん中で、途中見失わないように意識して歩く。堤燈の灯は、先頭の私の足元は照らすが、弟たちは私の足を見ながら歩くことになる。駅への道は殆どが下りで幾重にも曲る。カサカサと足音で草叢から鳥が起つ。右側の山から左の斜面へ馳け落ちるのは、猪か狸か。恐わいと思っても、口には出せない。弟が私の腰のあたりを、まさぐりつつ従いてくる。「ちょっと待ってよ」と、後尾の弟が怒って言う。常ならば、喧嘩になるところが、労りが口に出る。この山中に三人だけの道なのである。 |
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| 二時間も歩いたであろうか、「もう歩けないよお!」と下の弟が訴える。頑張れだけでは後半バテルかも知れぬ。道端に腰を下ろして小休止。夜露がズボンを通して染みる。ここまで来ると、リュックの雑穀の重みは増して、履いて出た藁草履が尻切れてきた。 「まだ遠いの?」と弟が問いかける。「もうすぐだ」と元気づける。心なしか明るくなって来た様だ。又縦隊になる。踵に小石が痛い。真の闇の色が蒼く変り初めた頃、最後の休憩にした。私は弟たちに、 「もうすぐ夜が明ける。そのころ里に出る。そして駅が見える。お前たちは座って休め。お兄ちゃんが先に駅へ行き、様子を見て、お兄ちゃんが両手をグルグル廻したら駅へ向かって急ぐんだ。もし、OKでなかったら絶対にここを動くなよ。必ず戻ってくるからな」 二人は肯いた。堤燈の火を消しても、歩けるようになった。目の前が広がって、田園風景が一望される地点に来た。「おい着いたぞ!」の声も高ぶる。遠くに、まだ醒めやらぬ家々が見える。汗と夜露で三人の下半身は濡れて、ズボンが重い。見渡す限り靄が立ち込めて、見るみるうちに夜が明けてきた。 |
| −23− |
| その時、私たちの頭上で、一声「キ、キ、キキキキ、キキ」と、一匹の蜩が静かに鳴いた。その声を合図に、右手の山々から蜩の集団が一斉に鳴き初めた。透き通るような響きであった。ひとしきり鳴くと、次は呼応して左手の山々の蜩が鳴く。その旋律は靄の中に染みて溶けた。闇から開放された人も、虫も、稲も、何事も無かった様な今日が始まったのである。交互して蜩は鳴き続けている。 私の、その日暮しが、明日をも知れぬ現実(うつつ)の中で、・・・(今日一日をどう生きるしかないんだ)と、自らに言い聞かせて、弟を置いて駅へ走った。 あれから五十年。私は一度も朝の蜩に出逢っていない。果たしてあれは蜩だったのだろうか。あの山村にだけ居たのだろうか。 確かめに一度、訪ねてみたい。 |
| − 完 − |